桐生雅彦は玩具メーカーの二代目経営者だった、
封筒は、総務の秘書が無表情に差し出したものだった。
差出人不明。
中には、たった一行の文字。
営業部の「村瀬は会社の金を使い込んでいる」
桐生は読み終えた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
根拠はない。
証拠もない。
ただの投書だ。
だが、その一行は、桐生の心の奥底に沈んでいた“影”を刺激した。
──やはり、そうなのか。
あいつの服装も、車も、遅くまで残る理由も。
すべてが繋がってしまう。
本来なら、冷静に調査すべきだ。
だが桐生は、すでに“疑いのフィルター”を通して世界を見始めていた。
村瀬がコピー機の前で誰かと話している。
それだけで、胸がざわつく。
──裏で何か相談しているのか。
証拠隠滅か。
村瀬が昼休みに外出する。
それだけで、心がざわめく。
──誰かと会っているのか。
金の流れを操作しているのか。
村瀬が遅くまで残っている。
それだけで、疑念が膨らむ。
──帳簿をいじっているのか。
俺の目を盗んで何かしているのか。
桐生は、自分でも分かっていた。
これは、根拠のある疑いではない。
自分の恐れが作り出した影だ。
だが、その影から抜け出せなかった。
父の声が蘇る。
「部下は信用するな。
裏切るのは、いつも一番近くにいる者だ」
その言葉が、桐生の心を締め付ける。
村瀬の誠実さも、努力も、言葉も、
すべてが“演技”に見えてしまう。
桐生は、ついに決断する。
──排除するしかない。
疑いを抱えたままでは、会社を守れない。
俺自身も、壊れてしまう。
その決断は、正義ではなかった。
安心を得るための“逃げ”だった。
だが桐生は、その逃げを正当化するしかなかった。
村瀬を排除するまで、
この葛藤から抜け出すことはできない。
そして桐生は気づいていた。
本当に追い詰められているのは、村瀬ではなく、自分自身なのだと。