渓谷に響く声
犬鳴山の渓谷に、若き太郎の声がこだました。24歳、まだ社会の荒波に揉まれたことのない彼は、大手銀行の支店長たちに囲まれ、まるでひよこのような存在だった。
講師は旧日本軍の中野学校士官、皆川氏。鋭い眼光と無駄のない所作に、軍人の威厳が滲んでいた。地獄の訓練と呼ばれたその講習は、2週間にわたり、精神と肉体の限界を試すものだった。
ある日、渓谷の両岸に分かれた30名の参加者。リーダーからの情報を対岸に伝えるという単純な任務。しかし、川の流れは激しく、水音が声をかき消す。のどから絞り出す声はすぐに枯れ、やがて誰もが腹の底から声を出す術を学ばざるを得なかった。
2時間近く続いたその訓練の後、皆川氏は静かに語った。
「もし君が工場のマネージャーだったら、遠くにいる社員の作業服がベルトコンベアに巻き込まれるのを見たとき、瞬時に遠くまで届く声を出せれば、命を救える。人間には、まだ自覚していない力がある。それを知り、生かすことが、責任ある者の務めだ。」
太郎はその言葉を胸に刻んだ。声とは、命を守るための力。そして、自分の限界を知り、それを超えるための第一歩。
人は、自分の持つ力を知らずに生きている。だが、極限の状況でこそ、その力は目覚める。
責任ある立場にある者は、瞬時の判断と行動で、他者の命を守る力を持たねばならない。
「声」とは、単なる音ではなく、意志と責任の象徴である。
若さや未熟さは劣等ではない。学びの余地があるということだ。