短編小説

短編小説 「穴の位置」

🪣 「穴の位置」
ソフトウェア開発会社・アステルワークスの開発室は、マスターアップ前の緊張に包まれていた。
その中心にいるのは、メインプログラマーの佐伯。
彼の書くコードは、まるで熟練の大工が刻む木材のように正確で、無駄がなかった。
「佐伯さん、ここの数値、桁が違ってます」
若手の宮下が声をかける。
佐伯は眉をひそめ、画面を覗き込んだ。
「……危なかったな。これ一つで全部が止まる」
その言葉に、宮下は胸がざわついた。
自分が書いたコードの一文字が、製造ラインを止め、販売スケジュールを狂わせ、会社全体に迷惑をかけるかもしれない。
そんな重責を、佐伯は毎日背負っている。

■ 宮下の不満
しかし宮下には、どうしても納得できないことがあった。
「責任、責任って……僕らは労働者ですよ。
権利だってあるし、無理な残業なんてしたくない」
休憩室で同僚にこぼすと、誰もがうなずいた。
会社は厳しい。納期は動かない。
それでも、責任を盾に無茶を押し付けられるのは違う。
「僕は僕の権利を守る。
社会のために犠牲になるなんて、まっぴらだ」
そう言い切った宮下の声には、どこか幼さが残っていた。

■ 佐伯の言葉
ある夜、宮下が帰ろうとすると、佐伯が声をかけた。
「宮下、少し話せるか」
会議室に入ると、佐伯は机に紙コップを置き、静かに言った。
「お前の言うことは正しい。権利は大事だ。
だがな……責任を果たせる人間にしか、権利は守れない」
宮下は反発しようとしたが、佐伯は続けた。
「人間には欠点がある。
それを“バケツ”だと思ってみろ」
佐伯はホワイトボードにバケツの絵を描いた。
「底に小さな穴があれば、水は全部漏れる。
上の方に大きな穴があっても、水はそこまでしか漏れない。
欠点の位置が大事なんだ」
宮下は黙って聞いていた。

「責任を果たすというのは、穴を“上の方”に持っていく努力だ。
完璧じゃなくていい。
ただ、肝心な時に水が残っている人間であってほしい」
その言葉は、宮下の胸に深く刺さった。

■ マスターアップ前夜
翌日、重大な不具合が見つかった。
原因は宮下のコードだった。
「……すみません。僕のミスです」
宮下は震える声で言った。
佐伯は静かにうなずいた。

「直そう。まだ間に合う」
二人は夜通し作業した。
宮下は初めて、佐伯が背負ってきた重さを理解した。
責任とは、誰かのために立ち続けることだった。

■ そして
マスターアップが無事に終わった翌日、宮下は佐伯に頭を下げた。
「僕、穴の位置を上に持っていけるように努力します。
権利を主張する前に、まず“役に立つ人間”になります」

佐伯は笑った。
「それでいい。
権利も責任も、どちらか一つじゃ成り立たない。
両方を持ってこそ、社会の一員だ」
宮下は深くうなずいた。
自分のバケツにはまだ穴がある。
だが、その位置を変えることはできる。
そして彼は、初めて本当の意味で“プログラマー”になった。

-短編小説