山本は、秋の午後、駅前の喫茶店でコーヒーをすすりながら言った。
「定年になったよ。長かったな、四十年。退職金もそこそこ出たし、何か商売でも始めようかと思ってる」
彼の目は、どこか晴れやかで、どこか不安げだった。
私は少し黙ってから言った。
「それを“資本の立場”で考えたことはあるか?」
山本は眉をひそめた。「資本の立場?」
「そう。君が持っている退職金は“資本”だ。商売を始めるというのは、その資本を使って“経営者”になるということだ。つまり、君自身がその資本を運用する責任を負うことになる」
「まあ、そうだな……でも、俺は長年会社で部長までやったし、多少の経営はわかるつもりだ」
「部長は“経営者”じゃない。あくまで“管理者”だ。経営者は、資本を預かり、リスクを背負い、失敗すればすべてを失う。従業員を雇えば、彼らの生活にも責任を持つことになる。君はその覚悟があるか?」
山本は言葉に詰まった。
「資本の立場なら、君は資金を提供し、経営は他人に任せることもできる。株式投資もその一つだ。君は経営者を選び、彼らの手腕に賭ける。失敗しても、君の責任は限定的だ」
「なるほど……俺は、資本の椅子に座っていたのに、経営の椅子に移ろうとしていたのか」
「そう。二つの椅子は似ているようで、座り心地がまるで違う」
数日後、山本は電話をかけてきた。
「商売はやめたよ。俺には経営者の椅子は硬すぎる。代わりに、商社の株を買った。あいつらの椅子に賭けてみるよ」
私は笑った。
「それが資本の選択だ。賢い判断だと思うよ」
喫茶店の窓の外では、秋の風が落ち葉を巻き上げていた。資本も経営も、風に乗るには覚悟がいる。だが、どちらの椅子に座るかは、自分で選べるのだ。